創設者
審査委員長 中川牧三 略歴
1902年 京都市中京区に生まれる。
1910年よりヴァイオリンを学び、1920年より声楽をモンテ・カルロ王立劇場で活躍したソプラノ、オルガ・カラスロワ氏に、和声を菅原明朗氏に、指揮を近衛秀麿氏に師事。
1930年(昭和5年)、恩師、近衛秀麿氏(筆頭華族近衛家の子息で貴族院終身議員、当時の内閣総理大臣近衛文麿氏の実弟、新響[現在のN響]の創始者)に後見人として伴われドイツ、イタリア、アメリカへと留学。
ドイツではベルリン国立音楽院に留学。 指揮法を巨匠オット・クレンペラー、作曲を巨匠ヒンデミット、ヴァイオリンを巨匠カール・フレッシュ氏に師事、声楽をワイセンボーン氏に師事。
後にミラノに移り、イタリアのベルカントオペラを研究するためミラノヴェルディ国立音楽院と国立スカラ座歌手養成所へいずれも初めての日本人学生として入学。また、発声の先生として当時最も名高いアルフレッド・チェッキ氏に師事。
1932年(昭和7年)、ピアチェンツァ王立歌劇場に初めての日本人歌手としてデビュー。 トスカニーニ夫妻はじめ、ラベルやマスカーニ、ジョルダーノら、往時の隆盛を極めた音楽家らとの華やかな交流は、当時の社交界の注目と関心を集めた。後に、音楽学とスパルティートを師事していたマルティーニ教授が米国からの招聘で移籍されるのを機に渡米、州立南カリフォルニア大学へ入学。引き続き教授のもとで音楽学とオペラ史を本格的に研究。
ハリウッド映画の名門「MGM」会長夫妻の推薦で当時の超一流シアターと云われたハリウッド随一のチャイニーズ・グローマン劇場に於いて、初めての日本人としてリサイタルを開催。演奏活動の最中、1935年(昭和10年)、戦雲急を告げ、やむなく急遽帰国。
帰国後、学校教育や音楽活動と相まって、国民運動として全日本合唱連盟や全日本吹奏楽連盟など数々の音楽活動団体を創設、音楽普及運動に傾注した。当時京都で黄金時代を迎えた日本映画界や、教育界の枢軸的な指導者としても活躍。
第二次世界大戦勃発後、「日独伊三国同盟」に於いて唯一人の陸軍代表として上海での日独伊外交を遂行。
中支派遣軍総司令部参謀部付幕僚として上海陸軍報道部も兼務。スポークスマンを努めるかたわら文化担当将校としても活躍。 当時ヨーロッパの最高水準を誇った「上海市交響楽団」や「ロシアンバレエ」を自ら指揮し、監督も兼任しあらゆる面で支援した。
近衛秀麿、山田耕筰、朝比奈隆、服部良一、李香蘭、白井鉄造、小牧正英はじめ、日本各地から八十数名の音楽家や文学者、舞踊家などを次々と上海へ招聘。「東洋のパリ」「東洋の魔都」と称された華麗なる上海で文化運動を推進し、戦後の日本文化に大きな影響を与えた。
迫害を受けた多くのユダヤ人を人道保護し、騎士道を貫いた数々の功績や、戦渦の上海で繰り広げた、国境を越えた平和的文化活動が後の国際裁判の軍事法廷でイギリス人らの証言によって次々と明らかにされ話題となった。
終戦後まもなく、進駐軍と毎日新聞社の全面的な支援のもと、関西における最初の本格的なイタリアオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」を東フィルを招聘して上演。引き続き「パリアッチ」「リゴレット」「椿姫」「蝶々夫人」「オルフェオ(本邦初演)」「ルチア(本邦初演)」「アミーコ・フリッツ(本邦初演)」他、演出、指揮、翻訳まで全てを自ら手がけて指導し、近畿各地において次々と上演。現在の関西のオペラの基礎を拓いた。音楽教育に携わる傍ら、大阪音楽大学をはじめ、関西各地の大学の創設を支援。日本に於けるオペラの開拓者としての功労を遂げ、オペラの第一人者としてイタリア政府から「カヴァリエレウフィチャーレ」を叙勲。
1959年、イタリア、ブッセート市主催「ヴェルディ国際声楽コンクール」へ初の邦人審査員として招かれ、運営委員及び審査員を24年間務め、わが国の声楽家をイタリアへ導く基礎を築いた。併せてプッチーニコン、マリア・カナルスコン、ヴェローナコン、ジリーコン、マリオ・デル・モナココン、トゥーティ・ダルモンテコン、トレヴィーゾコン、ローザ・ポンセルコン、コセンツァコン、セニガリアコン、ストゥレーザコン、ベッリーニコンほか、数々の国際コンクールへいずれも最初の日本人審査員として多年に亘って招かれ、実行委員並びに審査員を現在も務める。
国内では「日本音楽コンクール」(毎日新聞社・NHK主催)全部門の運営委員及び審査員を38年間努め、「全日本学生音楽コンクール」(毎日新聞社主催)を創始、毎日新聞社の文化活動に数多く携わり援助した。
今年で第37回を迎える「イタリア声楽コンコルソ」(日本イタリア協会・毎日新聞社主催)を1969年より創始主宰、審査委員長をつとめる。国内コンクールとしては創設当時より他に類をみない国際水準の審査と方針を貫き、加えて参加者全員に高い水準のコンシリオを与える機会を設け、「講習会付のコンコルソ」と内外から高い評価を得ている。二部門のコンコルソ優勝者以外にも、有能なマテリアルを持つ多くの留学希望者を次々とイタリアの国立音楽院へ導き、日本に於けるイタリア音楽の普及に貢献。
欧米諸国より、名高い歌手や演奏家、教育家、学者などを、民間としてはいち早くから招聘し、数々の講習会や演奏会等を開催、我が国に於けるベルカント継承の草分けとなった。それらの活動は「日本イタリア協会」として引き継がれている。
トゥーティ・ダルモンテ、ベンジミニャーノ・ジーリ、ジーノ・ベーキ、ジョルジョ・ファバレット、レナータ・テバルディ、ジュリエッタ・シミオナート、ジョゼッペ・タッディをはじめ、多くのオペラ黄金時代の巨匠らとの戦前からの深い親交は周知の通りで、殊に世紀のテノールと呼ばれたマリオ・デル・モナコ、ヴェルディコンクール創始者で名テノールのアレッサンドロ・ジリアーニとは1930年イタリア留学当時以来の同門の仲で無二の親友であった。
2000年「マルタ騎士勲章」授受
2001年「マルタ・大騎士大使勲章」(グラン・アンバシャトーレ勲章)授受
2004年2月と4月、101歳世界最高齢の現役指揮者としてオーケストラを指揮し話題となった。
2004年 国際ソロプチミスト日本財団「千嘉代子賞」授受
2005年 京都府文化賞「特別文化功労賞」授受
2005年 文化庁長官表彰 授受
2005年 イタリア政府より最高位の勲章『連帯の星』「グランデ・ウフィチャーレ勲章」授受
2008年 逝去後、天皇陛下の御裁下並びに閣議決定により「旭日小綬章」が追贈された
ヴィヴァルディ国際学会名誉会員 日本イタリア協会会長
実父は京都市葛野郡会議長を明治、大正に亘って努めた故中川源太郎。
実兄は京都府会議長、衆議院議員、日本遺族会創始者で初代会長の故中川源一郎。
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