日本イタリア協会のトップへ
 | TOP | イタリア声楽コンコルソ | イタリアピアノコンコルソ | ガーラ・コンサート・シリーズ | 国際コンクール |

 
 

深  謝

戦前、日本画壇の巨匠をはじめ音楽家や文化人が圧倒的に多かった京都に国立芸術大学を設立し、既存の東京芸大一校というよりも東大・京大のように互いに競争し切磋琢磨し合う相手があることでよりレベルが高まると確信し、京都国立芸術大学の設立は、当時の国会を通過し正式に決定、あとは土地探しのために宇治の山々などを近衛先生と一緒に雑草をかきわけて歩いて回ったという話は以前から何度も聞いておりました。その後太平洋戦争へとつき進んだ我が国の歴史と敗戦の混乱でその夢は露となってしまいますが、それは、20年ほど前に出された京都史の分厚い本の一端にも記述されていたのを見た覚えがございます。
まだ音楽そのものが日本で乏しかった時代、ヨーロッパの音楽がどんなに魅力あるもので人の心を豊かにするものであるかと云うことを、伝え、教えなければ・・と云う一心で、幅広い層に向けて情熱を燃やしオペラからカンツォーネ、ラテン音楽、管弦楽、吹奏楽、また日本で初めて京都と大阪のNHKに合唱団を創設したり(合唱という言葉も未だなかった時代)、マンドリンやギター、また当時ハイカラを極めて大ブームになったハーモニカクラブ等々に至るまで、数多くの音楽団体を設立して、指導し、西洋音楽の普及に傾注いたしました。

 

戦前のあの時代、国賓としてヒットラーユーゲントが来日した際など、京都で何万人をも動員してのフルオーケストラの大演奏会を催して〜日本の文化の高さを見せようと、指導から細かい仕切りまで一人でこなし、また毎週土、日、には円山音楽堂を埋め尽くした数百回のコンサート、多数のオペラ公演や歌曲のコンサート、毎週開いたバロック室内演奏会に至るまで、連日連夜催しても追いつかぬほどの数の演奏会を各地で催し、ラジオ放送(テレビがまだなかった)にも力を入れ多種多様な方法でヨーロッパの正統な音楽を紹介しようと活動を続けました。

戦後、設立をおしすすめた大学や団体は数知れませんが、その中でも日本合唱連盟などはあまりに古すぎまして、父が設立した初代合唱連盟は数年後に(戦争突入のため)一旦消滅し、その後また現在の合唱連盟が設立されたと聞いております。戦前編成したオーケストラも後に主要なオーケストラへと成長しますが、それらを統括して京都の日本映画を支える基盤をつくり映画黄金時代の構築に大きくひと役かった存在であったことも重要な軌跡の一つであります。
戦中、命をかけて騎士道をつらぬいた数々のエピソードは有名ですが、ともかくも明治、大正、昭和、平成に亘る父の生涯の歴史において、間に戦争という国家の混乱期を挟んでしまったことは人生の要の時期に貴重な活動を犠牲にせざるを得なくなったことと重なり、複雑な経緯をたどったため苦労もあったようでございます。

 
 
父の長い音楽人生をここで語ることはとても無理なことでございますので、(これについては1995年12月京都新聞の「たどりきし道」でもふれています。日本イタリア協会のHPに公開いたしました。インターネットでご覧いただけます) どなたもあまりご存じない父の真の姿や最後について少しお話申しあげたいと存じます。
明治35年に京都で生まれ、大正ロマンの時代に青年期を過ごし、昭和の初めにヨーロッパやアメリカに留学いたしますが、その頃はミラノスカラ座も貴族以外はプラテアへ入場できない時代で、広場では馬車や裾を引いた貴婦人達が行きかっていたそうです。父はいつでも自分ではなく、人が喜ぶ姿を見て喜ぶ人でした。また今のこの時代では想像できないことかもしれませんが、日本が世界に対して同列に肩をならべて認めてもらえるようにと・・そのことを一生懸命希って生きてきた人でございます。
日本が尊敬を集められる国に、国民に、なれるようにと、必死でそのことを愛情をもって示した人生でございました。
ここ一年次々と試練におそわれ幾度となく危ない目にあい危機に直面しましたが、昏睡状態で数日間意識を失っていた時でも、うわごとは、「助けなければならない・・・! ・・・! 」そんなことばかり・・。
昨年のコンコルソの時、私がどうしても父の傍から離れざるを得なかった時、私の若い弟子達が代わりに父の傍についてくれたのですが、その時もうわごとはいつも、(子供を諭すように・・ )「・・人を助ける人になるんだよ!・・」とか、戦争時代の夢を見ているようで、「・・私はいいから早く逃げなさい!・・・ 」とか切羽詰まった窮地に直面し人を助けようと夢にうなされていて、若いその子達は、必死な父に胸打たれ涙を流しながら私にその様子を伝えてくれました。私はそういう父の人を愛する心、国を愛する心、そして国境を越えた人間愛、を深く知っています・・・本当にそういう人でした。
昨夏、主治医の部長が父に、「先生、早く元気になっていただいて私もイタリアへつれていっていただけませんか・・」といわれ、続いて「先生が世界で一番きれいだぁと思われるところはどこですか・・?」と質問されたことがございました。
私はその時、おそらくきらきらと輝く地中海やエーゲ海の蒼い海、歴史ある美しい町などが目の前を映りよぎっているのではないかしら・・と考えていました。
すると父は、しばらくじっと考えまして、「・・・・それは、・・・・・・・日本です。」と答えました。私は父の言葉に思わず涙がでました。・・・父は本当に生涯をかけて明治維新の方々と同じ様に、祖国を心から愛して、父が愛する音楽、すばらしい音楽を通して、世界に誇れる国にしたいと願い壮絶な人生を遂げた人でした。
105年ではその思いはまだ完成されていませんでしたので、まだもう少しがんばらなければと、つらい体を押して、亡くなる一週間程前でも、よし・・と一旦決めた後は歩行練習を精神力で懸命にがんばっておりました。軽い肺炎の後の経過はよろしかったのですが、事情があってはじめて運ばれました大阪の病院での治療の行違いとその後の放置が原因で、長くお世話になっておりました神戸の病院へ思い切って搬送いたしましたが、手遅れで間にあいませんでした。私は父の信条を一番よくわかっておりますが、芸術文化の高いイタリアの偉大な多くの方々との友情を大切にし、日本人の代表として恥ずかしくないよう人々に尽くし尊敬を集め、イタリアの高い芸術性や文化を我が国に伝えるために賢明にそして一生懸命大切に当時の先生方や若い人たちを指導し育ててまいりました。その正直で懸命で、そして何よりも心が広くて思いやりのある優しい姿は何にも負けない美しい姿でありました。その心は日本人の美しい魂を象徴するものでございましたし、他の国の方々へも強いインパクトを与えたものでございました。ボローニャの自宅へも晩年は一年に一度くらいしか参れませんでしたが、一昨年(2007)の今頃、最後に参りました時にも、イタリア全土から偉大な方々が次々と父を慕って宅に挨拶におとずれてくださいました。
そして、ヨーロッパNATO本部のあるミラノのスカラ座のすぐ近くにある立派なクザーニ宮殿にも招かれまして、そこで開かれた、レナータ・テバルデイに継ぐ大歌手マグダ・オリベーロのお誕生会と父の長寿のお祝いを共に開こうということで音楽会とパーティが催されました。
また自宅のございますボローニャ市でも市長はじめ市の重要ポストの方々が、(市庁舎は町の中心の殿様の宮殿ですが・・)マエストロが広いイタリアの中でもボローニャに住んでくださっていることは、町にとって大きな誇りでありマエストロのフェスタをしたいと数年前から何度もおっしゃってくださっていて、秋には是非実現しようということで、一昨春四月宮殿の隅々まで案内して頂き下見をしました。
ですからあともう少し、命があれば、長年の苦労が報われてもっと父を喜ばせることのできる機会を皆様が一生懸命に考えてくださり準備してくださっていましたので本当に残念です。
厚かましい、と思われるかもしれませんが、生きる希望を失わずに最期まで強く闘いぬいて、貴い波乱万丈の人生を尽きた瞬間を思いますと、歳とは関係なく無念でなりません。父はいつでも温情に満ち、広い大地のように人を包み込み輝いていました。

昭和天皇がご幼少の頃、京都では仁和寺におでましになる度に一番お近しくお茶を差し上げておりましたのが一歳年下の父でございます。父は・・・・生粋の都人(みやこびと)、京都人でございました。
「山蒼く水清き京都・・・・」、日本の美や心を永年の歳月をかけて体得いたしました父が生涯をかけて皆様にお示しいたしました標を何卒ご理解賜り、世界に誇れる人徳を培って頂き乍ら、人の心を深く揺るがす正統なベルカントの技と術で、日本の美しくきよらかな真心を世界へ向けて発信して頂きたいと希っています。
末筆になりましたが、父が生前中に賜りました格別のご懇情に対しまして茲に厚く心より御礼申し上げます。

総務委員長 中川くにこ 拝

 

 
本サイトの内容を、権利者に無断で複製・改変することは 固く禁止いたします。
Copyright(C) 日本イタリア協会 ASSOCIAZIONE ITALO-GIAPPONESE ALL RIGHTS RESERVED.